脳の情報処理機構に基づいて、人間の行動原理を探求|計算行動神経科学研究室

計算行動神経科学研究室・特任准教授の田中沙織です。2022年4月からスタートした本研究室では、人間を理解するために、脳の情報処理機構に基づく行動モデルの構築と、実験的手法やデータ駆動的手法による検証によって、人間行動の原理探求を目指しています。詳しい研究内容については、ウェブサイトや研究内容の紹介動画などもご覧ください。

計算行動神経科学研究室Webサイト:

https://xsaori.github.io

日本神経科学学会による市民公開講座シリーズ「脳科学の達人」Youtubeチャンネル:https://www.youtube.com/watch?v=HFonDMjcGp4

本研究室の研究テーマの一つに、人の行動を数理モデルによって記述するという取り組みがあります。例えば、その人の行動を説明できる数理モデルのパラメータなどの特徴と、脳や心理指標といった観測可能な個人特性の間の関係を明らかにすることで、脳やこころの状態を定量的に評価することが可能になります。

今回は、精神疾患の一つである強迫症の数理モデル構築と臨床データでの検証に関する研究を紹介します。

計算論的精神医学(computational psychiatry)

行動や脳の神経活動の背景にある仕組みを数理モデルによって明らかにしようとする研究方法は、「計算論的アプローチ」と呼ばれます。このアプローチでは、私たちが何かを知覚し行動する際に脳が行っている脳神経の信号処理を、ある種の「計算」と捉えて、そのプロセスの計算論モデルを作成します。近年、精神疾患を対象として、この計算論的アプローチを用いることで、検査データなど客観的な指標だけではわからない疾患の仕組みを理解しようとする「計算論的精神医学(computational psychiatry)」が注目を集めています。私たちは、この計算論的アプローチを用いることで、強迫症(強迫性障害)の症状・治療のメカニズム解明を目指しました。

強迫症:不安を伴う繰り返し行動

強迫症は、生涯有病率約2%とよくみられる精神疾患で、強迫観念と強迫行為によって特徴づけられます。強迫観念は繰り返される持続的な思考で、強い不安を伴います。強迫行為は強迫観念によって起こった不安を一時的に軽減するための過剰な繰り返し行動です。代表的な症状としては、「鍵がしっかり閉まっていないことでなにか起こるのではないかと不安に思い(強迫観念)、何回もドアノブを確認する(強迫行為)」などが知られています。治療法として、不安に立ち向かい強迫行為をしないことを練習する行動療法と、抗うつ薬としても知られている「セロトニン再取り込み阻害薬(serotonin reuptake inhibitor: SRI)」による薬物療法があり、これらは治療ガイドラインで第一選択の治療法とされています。しかし、強迫観念と強迫行為が悪循環する強迫症状がなぜ生じてくるのか、行動療法やSRIの投与がどのようにして治療効果を発揮しているのかのメカニズムはよく分かっていませんでした。

強迫症の数理モデル:強迫症状を生み出す強化学習パラメータの同定

そこで、私たちはこのメカニズムを解明するために、なぜ強迫症患者の脳がこの悪循環を「学習」してしまうのかについて、計算論モデルを使って調べました。私たちは、脳が行なっているとされる学習の一つである「強化学習」に着目し、計算論モデルを作成しました。ある個人がどのような行動を身につけやすいかといった特性を表す学習パラメータを、パソコンで実施可能な、簡単な選択課題で計測することができます(下図)。

様々な学習パラメータの組み合わせを用いたコンピューター・シミュレーションや理論的解析を行った結果、どれぐらい過去の行動まで学習に関連付けるかを調整する学習パラメータについて、現在の結果が予想より悪かった場合のパラメータ(ν-)が、予想より良かった場合のパラメータ(ν+)よりも極端に小さい(“アンバランス”、下図の右下の領域)場合、強迫症状(強迫観念と強迫行為の繰り返し)がいつのまにか学習されてしまうことを見い出しました。さらに、この学習してしまった強迫症状は、「強迫観念があっても強迫行為をしない」といった行動療法を行うことによって改善できることも、シミュレーションで見い出すことができました。

実験的手法による検証

次に、計算論モデルから予測された学習パラメータの性質が、実際の強迫症患者において観察されるのかどうかを検証しました。強迫症患者と健常者において選択課題のデータ収集を行い、個々人の学習パラメータを推定したところ、計算論モデルから予測された通り、強迫症患者は健常者と比較してアンバランスな学習パラメータを示すことが分かりました(下図)。

また、これまで治療薬であるSRIがどのようにして強迫症への治療効果を発揮しているのかは解明されていませんでした。そこで、SRIの投与量と学習パラメータのアンバランスさの関係性を調べたところ、治療薬であるSRIの投与量を増やすほど、アンバランスを解消できていることが分かりました。つまり、行動レベルのメカニズムとしては、学習パラメータのアンバランスを解消することによって、治療効果を発揮しているというメカニズムが示唆されました。

臨床的な意義:治療最適化へ

これらの成果は、強迫症状やその治療の根本的なメカニズムの理解において、大きな進展と言えます。臨床的なエビデンスとして、一部の強迫症患者は行動療法での治療がうまくいかないこと(治療抵抗性)が知られています。私たちの研究では、学習パラメータを計測・推定して、より極端なアンバランスが存在する場合、行動療法のみでは治療ができないということも、理論的に導き出すことができました。現状の臨床では、強迫症を治療する際にどの治療法が効果を発揮するかを事前に予測することはできません。今後、私たちの計算論的アプローチを適用し、治療前に学習パラメータを評価することで、行動療法のみでの治療が可能かどうかといった、治療の最適化ができる可能性があります。

研究の広がり:疾患から人間全体へ

また今回の研究において得られた興味深い結果として、健常群にもパラメータのばらつきが観測されたという点があります。健常者でもアンバランスなパラメータのクラスタと、バランスが取れたパラメータのクラスタでは、異なる個人特性を持つことがわかりました。このことから、私たちの研究アプローチにより、疾患患者のみならず、人間全体における個人特性のばらつきとその脳機構を検証することができると期待しています。

そこで最近では、思春期の行動の数理モデル構築と大規模コホートデータでの検証、また日常生活における行動特性と学習パラメータの関係を調べています。

今回紹介した強迫症の数理モデルの研究は、NAISTのプレスリリースでも紹介されていますので、興味のある方はぜひこちらもチェックしてみてください。

http://www.naist.jp/pressrelease/2022/08/009227.html

著者紹介

田中 沙織(たなか さおり)

博士(理学)。2001年大阪大学理学部物理学科卒、2006年奈良先端科学技術大学院大学情報科学科博士課程修了。 同年カリフォルニア工科大学客員研究員、2007年 (株)国際電気通信基礎技術研究所 (ATR) 脳情報研究所連携研究員、2009年大阪大学社会経済研究所特任准教授、2012年同研究所准教授を経て、2015年よりATR脳情報通信総合研究所・数理知能研究室・室長 (https://bicr.atr.jp/ncd/)。2022年より奈良先端科学技術大学院大学・特任准教授(兼任)。2005年日本神経回路学会論文賞・研究賞・奨励賞、 2008年中山科学振興財団中山賞奨励賞受賞。2018年日本行動経済学会 第1回行動経済学会ヤフー株式会社コマースカンパニー金融統括本部優秀論文賞、2019年神経回路学会優秀研究賞受賞。意思決定の数理モデルと実験的手法を組み合わせた研究アプローチにより、人間の行動原理の探究を続けている。犬が好き。
Webサイト:https://researchmap.jp/xsaori